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企画特集 10-9 INNOVATIONの最先端 ~Life & Green Nanotechnologyが培う新技術~
<第57回>
表面増強ラマン散乱を活用した極微量物質の低コスト検知技術
~テロ対策や医療分野への応用が期待されるSERS試薬開発~

ストローブ株式会社 代表取締役社長 今井 裕一氏に聞く

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(写真上左)ストローブ社の今井 裕一氏,
(写真上右)nano tech大賞表彰式の今井氏(中央)と福岡氏(右)


 21世紀初頭,米国でナノテクノロジー国家計画(National Nanotechnology Initiative)がスタートしてまもなく日本で始まった国際ナノテクノロジー総合展・技術会議は2017年には,第16回となった(nano tech 2017).500に近い出展者があり,2月15日から17日の3日間に5万人が東京ビッグサイトの会場に足を運んだ.最終日には,優れた展示に対し,nano tech大賞の表彰があり,その部門賞の一つである日刊工業新聞社賞には「ストローブ(小間番号:6D-07)」が選ばれた[1].受賞理由は「表面増強ラマン散乱技術を活用した微量物質の低コストな検出技術を開発した.対テロ対策や医療分野への応用が期待される点を賞す」とあった.受賞した「ストローブ」は東京工業大学横浜ベンチャープラザ(東工大YVP)に本社を置く株式会社である.ストローブ株式会社 代表取締役社長 今井 裕一(いまい ゆういち)氏(写真上左)を東京工業大学すずかけ台キャンパスに隣接する東工大YVPに訪ね,受賞した技術の内容,その技術を開発するに至った経緯等を伺った.上右の表彰式の写真に,今井氏(中央)は表彰の盾を持ち,naao tech 2017のシーズ&ニーズセミナーでプレゼンテーションを行った兵庫県立大学の福岡 隆夫氏(右端)と収まっている(左端は日刊工業新聞社東京支局長).以下で,ストローブ株式会社はストローブ社,表面増強ラマン散乱は英語のSurface Enhanced Raman Scatteringの頭文字からSERSと略記する.


1.科学技術研究と世界を良くすることを社是とするストローブの歩み [2]

1.1 ストローブの社名とミッション

 ストローブ(Strawb)という社名は“Strawberry”を縮めたものである.The Beatlesの“Strawberry Fields Forever”に触発されて名付けられた.その歌詞にある“Nothing is real. And nothing to get hung about”を言い換えた“Nothing is real. But, everything is possible!!!”をスローガンとして,“Science Technology Research And Worldwide Betterment”の頭文字を取り,科学・技術・研究で世界を良くすることをミッションに掲げた.ロゴマークはイチゴに足が付いていたイラストで,イチゴが歩き出す様を表している(図1).


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図1 ストローブ社のミッションとロゴ


 本社以外に,岡山県高梁市(総社市を挟んで岡山市の西北,倉敷市の北)に岡山オフィス,ラマン増感試薬製造所,柳沢センサー製造所がある.今井氏は高梁市の出身で,当地で120年の歴史を持つガソリンスタンド「イマイ」の代表取締役を務めていたが,経営多角化の一環として,日本石油ガス(現 JXTGエネルギー)の出資でストローブ社の前身となる日本リビング株式会社を2002年1月8日に設立した.ストローブへの社名変更は2013年に行われた.事業としては,人工筋肉(静電アクチュエータ)の研究開発,ダイヤモンド・ナノ粒子及びDLC(ダイヤモンドライクカーボン)の研究開発,環境検査製品の研究開発並びに製造販売を行っている.資本金は1億8,200万円,2016年12月期の売上は1,000万円であった.


1.2 独特の技術を取り入れて事業展開

 会社設立のきっかけは,現在取締役会長を務める内 富男氏と2001年に出会ったことだった.内氏は電気通信大学 共同研究センターにおいてプラズマCVD法による「ダイヤモンド薄膜作成装置」を開発した.この装置は常温でDLCを成膜できるため,プラスチックにDLCをコーティングできる.二人はこの技術の事業化のため,日本リビング株式会社を設立した(表1).DLC事業は,ふくはうちテクノロジー株式会社で行い,農水省研究開発助成「DLC技術を応用した内分泌かく乱物質が溶出しない食品容器の開発」などを進めた.


表1 ストローブ社の沿革・事業展開
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 このDLCの取り持つ縁で東京大学大学院教授(当時)柳沢 幸雄氏に出会い,2005に柳沢センサー・ホルムアルデヒドを発売した.家庭や学校での室内空気汚染による健康被害,いわゆるシックハウスが問題となっていて,その原因物質である微量のホルムアルデヒドを検出しようという環境検査製品である.センサーを売るだけでなく,ハウスクリニックというサービスも行っている.ホルムアルデヒドの発生源を特定し,数値化するだけにとどまらず,診断書の発行,対策のためのリフォーム提案まで,一連のサービスを顧客に提供する.

 DLCは人工血管,カテーテルなどに適用される小径長尺チューブ内壁にも成膜でき,医療分野とのつながりもできた.2008年には東京工業大学と静電アクチュエータ(人工筋肉)共同研究契約を締結し,画像認識,静電アクチュエータなどを専門とする同大学バイオ研究基盤支援総合センター准教授 實吉 敬二氏を取締役CTO(最高技術責任者)に迎えて事業分野を拡大した.

 2006年になると,国土安全対策委員会において内閣府所管の財団法人 未来工学研究所がバイオ.ケミカル危機管理を検討し,2013年には,財務省関税中央分析所から環境検査製品を不正薬物の検出に使えないかと問われた.そこで兵庫県立大学の技術で試作していたSERS試薬を納入し,高い評価を受けた.このおかげで2014年には中小企業庁のものづくり助成を受けてSERS試薬製造所を開所した.警察庁科学警察研究所,及び産業技術総合研究所と共同研究を行い,2016年に化学兵器用剤(化学剤)のSERS高感度検出に成功した.この成果をnano tech 2017に出展し,大賞を受賞した.


2.常温DLCから環境検査への展開

2.1 ストローブ社の基幹技術 DLC常温成膜技術の展開

 ストローブ社の発足当時からの基幹技術は,DLC真空薄膜形成技術である.DLCはダイヤモンドに近い特性を持った非晶質材料で,耐摩耗性,耐腐食性,透明,ガスバリア性を持つ.ストローブ社は40℃付近でプラズマCVDによりDLC膜を形成できる.常温で成膜できるため,樹脂に適用できるなど,適用範囲が広い.この技術は平成16年度特許庁委託中小企業知的財産戦略支援事業で高い評価を受けた.DLCコーティング酸素バリア容器(味噌販売用),DLCコーティング義歯,アセトアルデヒド溶出防止DLCコーティングペットボトル,酸化防止DLCプラスチック磁性体の開発実績がある.ペットボトルに厚さ50nmのDLC膜をつけると,酸素バリア性が10倍高まるので,紅茶のボトルに使われている.また,プラスチック磁石は100~150℃で酸化するが,DLCコーティングすると150℃,1,000時間で,減磁特性が5%以下という要求を満たすことができる.

 最近の成果は,小径長尺チューブ内壁へのDLC成膜である.人工血管,カテーテルなどに適用される.動脈硬化の外科的治療に人工血管の移植が行われるようになり,ePTFE(expanded Polytetrafluoroethylene)製の人工血管が多用されているが,直径6mm未満の小径の場合は開存率(血管の詰まりにくさ)が悪い.DLC膜をePTFEに被覆すると皮下組織における炎症反応が抑制され開存率が良くなることがわかっていたが,小径長尺チューブ内壁へのDLC成膜の報告例はほとんどなかった.ストローブ社はこれに挑戦し,真空中でチューブ内外の圧力差を利用した交流高電圧プラズマ法により,CH4プラズマからのDLC成膜に成功した.成膜時の温度は100℃以下だった.内径2mm,長さ150cmのチューブ内壁に成膜でき,アスペクト比AR750を達成した(図2).岡山理科大学中谷達行教授及び岡山大学医学部大澤晋氏,藤井泰宏氏らとの共同研究の成果で,DLC膜をコーティングした人工血管は岡山大学で炎症反応の動物実験を行っている.2017年3月13日の日本経済新聞は,「細い人工血管 詰まりにくく」の見出しで記事を載せている[3].


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図2 人工血管内壁へのDLC常温成膜


 また,純白のナノダイヤモンドの生成に成功した.従来の生成法は,爆薬を密閉容器中で爆発させて,衝撃波の圧力とエネルギーでダイヤモンドを作る爆轟法であるが,グラファイトなどの夾雑物があり,純度は97%程度に止まる.これに対しプラズマを利用した合成法(プラズマCVS,プラズマ化学気相合成)を用いると,雪雲から雪の微結晶が降るように,プラズマからダイヤモンド微粒子が降下し,ダイヤモンドスノーとなる.粒径は30~40nmでワタ状,純白になる.目下,収率の改善に取り組んでいる.


2.2 シックハウス問題に応え,環境・微量検査のきっかけとなった柳沢センサー

 新築の住居などで,倦怠感・めまい・頭痛・湿疹・のどの痛み・呼吸器疾患などの症状があらわれることがあり,シックハウス症候群と呼ばれる.その原因物質の一つがホルムアルデヒドとされ,建材に残っていないか検査することになる.日本工業規格(JIS)などで定められている検査法では,試験片を切り出す必要があり,家具や建材などからのホルムアルデヒド放散量をその場で測定することはできない.これに対し,ストローブ社は,柳沢氏の考案したホルムアルデヒド発生源検知センサー(柳沢センサーホルムアルデヒド)を製品化し,これと組み合わせる放散量測定器を開発,検査サービスの展開を行った.

 柳沢センサーは酵素のホルムアルデヒドによる変色を用いる.図3の左は直径約2cmのPET容器に入ったセンサー,右はセンサー本体で,それぞれの中央部にある5mm角の赤い部分がホルムアルデヒドによって酵素が変色した試験紙である.建築基準法の定めるホルムアルデヒド放散等級F☆にあたる1.51mg/L以上では図のように酵素が赤くなる.F☆☆☆☆にあたる0.3mg/L以下では赤が薄い.この色調変化を,ストローブ社と東大が共同開発した光電光度法によるホルムアルデヒド放散量測定器で読み取って正確な放散量を得ることができる[4].


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図3 ホルムアルデヒド発生源検知センサー


 センサーの容器(ケース)はホルムアルデヒドフリーの特殊PET樹脂を使用している.この樹脂はホルムアルデヒドを透過しないので,測定面以外の空気中のホルムアルデヒドの干渉を避けることができる.この樹脂に出会う前には,ガスバリア性のあるDLCで容器を被覆することが検討された.柳沢氏からのDLC適用の打診が今井氏と柳沢氏との出会いとなり,環境検査製品事業の道を開いた.その後,今井氏は,2006年の国土安全対策委員会国際フォーラムで未来工学研究所の方々などの知己を得,財務省関税中央分析所や警察庁科学警察研究所のニーズを知って,対テロ対策や医療分野への応用が期待されるSERS試薬の開発を行った.社会的ニーズに対応する,環境検査への大きな展開である.


3.表面増強ラマン散乱(SERS)技術を活用した極微量物質の検出

3.1 nano tech 2017展示と開発の背景

 ストローブ社はSERSを利用した極微量物質の低コスト検知技術をnano tech 2017に展示し,展示会場でのシーズ&ニーズセミナーでプレゼンテーションを行った.図4は展示品での実験を撮った写真で,中央やや右上に手のひらサイズのSERS測定器が見えている.簡単な装置構成のため,屋外等でも手軽に物質検査が可能となる.極微量物質の検出には,従来技術だと1,500万円の装置を必要としたが,SERS試薬を用いて100万円程度のSERS測定器で従来技術の1,000倍の感度を確認したという.この技術を紹介する記事は,展示の前後に日本経済新聞と山陽新聞が掲載している[5].また,展示の状況はNanotechJapan Bulletinのnano tech 2017開催報告に記されている[6].


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図4 SERSを利用した極微量物質の検出実験


 この技術開発は,科学警察研究所及び産業技術総合研究所(産総研)四国センターとの共同研究で行われた.共同研究の成果は2016年9月開催の応用物理学会学術講演会で発表された[7].講演は産総研の伊藤 民武氏が行い,ニーズを提示して研究を推進した科学警察研究所 瀬戸 康雄氏は共同発表者に名を連ねている.応用物理学会講演予稿の「序」には対テロ対策としてのニーズと研究の狙いが概ね次のように記されている.「現在,化学兵器用剤(化学剤)を用いたテロの脅威が顕在化している.化学テロの危機管理においては化学剤の散布現場で速やかに中毒原因物質を特定することが重要である.従来の現場検知技術は感度および識別能力の面で十分でない場合もある.表面増強ラマン散乱(SERS)は超高感度と高識別能力を併せ持つ検出技術であるため,びらん剤等を標的として,SERS高感度現場検知技術の開発を目指す.」

 このようなテロ対策のニーズは広く認識され,それに応える技術開発が進められている.上記の講演予稿にはデンマーク工科大学とスウェーデン国防研究所の共同研究によるVXなどの神経ガスのSERSによる検出の論文が引用されている[8].危険物質の検出のニーズはテロ対策に限らず,危険ドラッグにも及ぶ.危険ドラッグ検出のため科学警察研究所は,ナノテクノロジープラットフォームを利用して検出に必要な標準薬品を合成・分析ししている[9].


3.2 金ナノ粒子を用いた表面増強ラマン散乱(SERS)

 このような背景のもと,ストローブ社は高速・簡便・極微量で検出でき,あらゆる検体同定に発展させたいとの考えから,金ナノ粒子を用いた表面増強ラマン散乱(SERS)による極微量物質の検出に取り組んだ.

 ラマン散乱は,物質に光を入射したとき,散乱された光の中に入射光と異なる波長の光(ラマン散乱光)が含まれる現象で,1928年にインドの物理学者Chandrasekhar Venkata Ramanが発見し,1930年にノーベル物理学賞を受賞している.このラマン散乱は物質中の分子の振動によって起こり,分子の振動はその分子固有のものであるから,波長シフトから分子を同定できる.物質に光を当てた時に,分子のエネルギー準位に依存した波長シフトを持って放出される蛍光も同様の分析手段となる.しかし,蛍光色素Fluorを例にとると,波長750nmの励起光による蛍光発光では励起光と蛍光の波長差は25nmに過ぎないのに,蛍光発光スペクトルの半値幅は60nmあって,スペクトルが重なるから分解能が低い.一方,ラマン散乱では波長シフトが100nmを超えるのに,スペクトル幅は5nm以下であるから分解能が高い(図5).このため分析用に,ラマン分光装置が製造・販売され,物質を同定するためにラマンシフトのライブラリーも用意されている[10].しかし,入射光の一部しか散乱光にならないのでラマン分光の感度は低く,測定可能濃度は赤外分光のppmオーダーに対し,ラマン分光は%オーダーに止まっていた.


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図5 SERSと蛍光の分光スペクトル


 これに対し,1979年に数十nmサイズの金や銀のナノ粒子の表面に吸着した分子のラマン散乱強度が何桁も増強する現象が英国で発見された[11].この現象はSERSと名付けられて現象解明と分析応用が進み,2010年には産総研で細胞表面タンパク質の1分子その場(in situ)SERS検出などが行われるようになった[12].

 分子の光学応答増強の起源は金属ナノ粒子の表面における自由電子の集団振動(プラズマ振動)にある.金属に光を照射すると,金属中の電子は光の電場によって運動し,金属ナノ粒子の中では集団振動するようになって,局在プラズモン(プラズマ振動を量子化したもの)が形成される.これによって生じる分極を打ち消すように振動電場が発生し,このプラズマ振動と入射光が共鳴して強い光の吸収が起こってナノ粒子表面に増強電場が形成される(プラズマ共鳴).金属ナノ粒子に付着した分子はこの増強電場を感じるから,最大107倍に増強された光で励起されることになる.この励起された分子は,再度プラズマ共鳴を引き起こして粒子から光を放射するが,プラズマ共鳴の介在によって放射効率が同じく最大107倍向上する.この励起と放射の増強によって光強度の増強は最大1014倍に及び(図6),1分子のラマン散乱が検出できるようになる[12].


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図6 表面増強ラマン散乱でラマン分光を高感度化


3.3 SERSを用いた分析・微量物質検出

 SERSは,貴金属ナノ構造を利用して,化学物質の分子情報を検知可能な大きさの光シグナルに変換する.このため,SERSは表面分析・1分子計測・新しい光計測法として利用が拡大している.計測には,微量の検査物質を吸着して,SERSを起こさせる金属ナノ粒子が不可欠である.そこで,金属ナノ粒子に被験物質を滴下してSERS測定を行えるよう,金属ナノ粒子やこれを溶媒に分散させた試薬が必要になる.

 世界的にSERSによる分析が活発化するに伴い,SERS用ナノ構造体が欧米で市販されるようになった.ゾル・ゲルマトリックスに分散したコロイド状のAgを始め,グラファイトのナノフォトニック結晶,ナノロッドアレイなどが売り出された(図7).


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図7 市販されているSERS用ナノ構造体


 これに対し,日本ではストローブ社が金属ナノ粒子凝集集合体を分散させた液体試薬を2015年に開発した.図8の上部左は瓶に入った試薬,右は金ナノ粒子の分散を示す電子顕微鏡写真である.ストローブ社のSERS試薬は制御された金ナノ粒子凝集集合体から成り,多様な物質のラマン散乱シグナルを増幅し,目的分子の選択的増幅・検出ができる.唯一の液体試薬で,高感度が特徴になっている.鎖状に制御された金ナノ粒子凝集集合体に対象分子を吸着させる.鎖状のナノ粒子凝集集合体は近赤外光を増幅するナノアンテナの役割を担う.均一分散のため溶媒には超純水を使うことが多いが,ストローブ社のものはありふれた溶媒を使っているので被験物質溶液の溶媒に制限の起こることは少ない.測定は,被験物質と試薬をAl板上に滴下して,レーザー光の反射を見る.手のひらサイズの測定器で,反射光に含まれる散乱光のラマンシフトを測定できる.SERS試薬としては,金の代わりに銀ナノ粒子を用いたものも用意している.これを用いて次節のような測定が行われた.


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図8 世界で唯一の液体ラマン増感試薬


3.4 SERSを用いた極微量物質の検出

3.4.1 表面増強ラマン分光法による化学薬剤の高感度検出 [7][13]

 3.1節で触れたように,化学兵器用剤の一つであるびらん剤の高感度検出を行い,応用物理学会で発表した.検出対象のびらん剤にマスタードガス(ClCH2CH2SCH2CH2Cl,HDと記す)を選んだ場合について説明すると,直径5mm,深さ4mm程度のアルミ箔の皿で,HDのメタノール溶液3µLと直径50nm程度の金ナノ粒子分散液54µLを混合し,凝集開始剤NaCl 3µLを混和・混合してハンドヘルドラマン分光計でSERSスペクトルを測定した.ラマン分光計はSERSTech製で,励起波長784nm,出力300mW,分解能10cm-1であった.このHD金コロイド分散液は,ラマンシフト600~800cm-1に特徴的なSERSスペクトルを与え,検出下限値は10ppm程度であった(図9).HD銀コロイド分散液でも同様のスペクトル,検出下限値が得られた.


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図9 マスタードガスのSERSスペクトル


 他のびらん剤として窒素マスタード3((ClCH2CH2)3N,HN3)を用いた金または銀のコロイド分散液では検出下限値は1ppmとなった.ルイサイト(ClCH=CHAsCl2,LI)の場合,金コロイド分散液では検出下限値が300ppbとなったが,銀コロイド分散液では特徴的なSERSスペクトルが得られなかった.


3.4.2 表面増強ラマン分光法を用いた発がん物質の簡易測定 [14]

 SERS測定は,前項の安全保障だけでなく,食の安全・安心への対応にも使用できる.例えば,食肉を加熱するとMelQxなどのヘテロサイクリックアミン(HCA)が生成するが,HCAには発がん性の疑いがある.そこで,兵庫県立大学との共同研究により,SERSによる極微量HCAの分析を試みた.共同研究者の兵庫県立大学 福岡 隆夫氏はSERS活性自己集合体の開発・SERS測定を行い,nano tech 2017のセミナーでプレゼンテーションを担当した.

 測定試料準備条件は前項のマスタードガスと同じで,MelQxのメタノール溶液3µL,金ナノ粒子分散液54µL,凝集開始剤NaCl 3µLを混和・混合する.ラマン分光測定には励起光波長785nm,出力8mW のLamda Vision Inc.の顕微ラマン分光器を用いた.測定時間は1秒であった.この結果,60~500nMのHCA濃度範囲でMelQxの特徴的なラマンスペクトルが観測され,SERSによる極微量HCAの分析の可能性が確認された(図10).


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図10 ヘテロサイクリックアミンのSERSスペクトル


4.おわりに

 ストローブ社は,表面増強ラマン散乱を活用した極微量物質の低コスト検知技術を開発し,これに必要なSERS試薬を製造・提供している.開発した技術や試薬を用いて,安全保障や健康に関わる極微量物質の検出を確認した.科学技術の研究開発で世の中を良くしようというストローブ社が掲げた目標の現時点における一つの到達点である.常温DLC成膜という独自技術をもとに,優れた技術や人と出会い,その技術を取り込んで新製品・サービスを生み,事業展開してきた.大学や公的機関の技術を活用し,社会のニーズを掴み,公的機関の支援を受けて,開発を進めた.会社売り上げが十分には伸びていない中での開発には資金面などで苦労も多かったようである.nano tech 2017出展は高梁商工会議所の支援により可能になったという.ストローブ社の研究開発,企業努力は,nano tech大賞に限らず,中小企業基盤整備機構スゴ技ニッチトップ企業20社に選出,横浜知財みらい企業認定[15]などの果実として実を結んだ.SERS技術を含む20件を超える特許査定を受け,また出願中で,分析のためのデータライブラリーを整備して利用環境を整備するという.実を結んだ果実が育ち,新しい種を生み,世界を良くする新しい技術の誕生が続くことを期待したい.


参考文献

[1] “nano tech大賞 2017” http://www.nanotechexpo.jp/2017/main/award2017.html
[2] “STRAWB Inc.” http://www.strawb.jp
[3] 左右田克成,中谷達行,藤井泰宏,大澤晋,今井裕一,"交流高電圧プラズマCVD法によるePTFE製人工血管内壁へのa-C:H膜の成膜",表面技術協会第135回講演大会,東洋大学川越キャンパス,P-35,p.43-44(2017年3月)
[4] “STRAWB Inc.「柳沢センサーホルムアルデヒド発生源検知センサー」”
http://www.strawb.jp/product/yanagisawa/index.html
[5] “微量物質検出 安い試薬”,日本経済新聞 2017.2.11,“低価格で化学物質検出”,山陽新聞 2017.3.29
[6] “第16回国際ナノテクノロジー総合展・技術会議 nano tech 2017開催報告”,NanotechJapan Bulletin, Vol. 10, No. 2, 2017年4月28日発行
http://nanonet.mext.go.jp/ntjb_pdf/v10n2_nanotech2017.pdf
[7] 伊藤 民武,山本 裕子,瀬戸 康雄,大類 保彦,名児耶 友樹,今井 裕一,福岡 隆夫,"表面増強ラマン分光法によるびらん剤の高感度検出",第77回応用物理学会秋季学術講演会 講演予稿集,講演番号 15a-P5-12(2016年8月)
[8] A. Hakonen, T. Rindzevicius, M. S. Schmidt, P. O. Andersson, L. Juhlin, M. Svedendahl, A. Boisen, and M. Käll, "Detection of nerve gases using surface-enhanced Raman scattering substrates with high droplet adhesion", Nanoscale, Vol. 28, pp. 1305-1308 (2016)
[9] “指定薬物3,4-ジクロロメチルフェニデートの合成と分析”,秀でた利用成果(nano tech 2016 展示) http://nanonet.mext.go.jp/seika_selection/2016_SeikaSelection_5.pdf
[10] 例えば,堀場製作所,
“分光分析 ラマン分光” http://www.horiba.com/jp/scientific/products-jp/raman-spectroscopy/
“ラマンとFTIRのバンド” http://www.horiba.com/jp/scientific/products-jp/raman-spectroscopy/about-raman/4/
[11] J. Alan Creighton, Christopher G. Blatchford, and M. Grant Albrecht, "Plasma resonance enhancement of Raman scattering by pyridine adsorbed on silver or gold sol particles of size comparable to the excitation wavelength", Journal of the Chemical Society, Faraday Transactions 2: Molecular and Chemical Physics, Vol. 75, pp. 790-798 (1979)
[12] 伊藤民武,"金属ナノ粒子を利用した表面増強ラマン散乱と生体分子への応用",産総研 TODAY 2010-03,pp. 8-9 https://www.aist.go.jp/Portals/0/resource_images/aist_j/aistinfo/aist_today/
vol10_03/vol10_03_p06_p07.pdf
[13] 瀬戸康雄,大類保彦,名児耶友樹,大森毅,柘浩一郎,大塚麻衣,今井裕一,福岡隆夫,伊藤民武,山本裕子,"表面増強ラマン分光法によるびらん剤の高感度検出,日本分析化学会年会講演要旨集", Vol. 65th, p. 203(2016年9月)
[14] 福岡 隆夫,今井 裕一,山本啓二,内海裕一,山口明啓,"金ナノ粒子自己集合のSERSを利用するヘテロサイクリックアミンMelQxの簡易測定",日本分析化学会年会講演要旨集 Vol. 65th, p. 437(2016年9月)
[15] “「横浜知財みらい企業」54社を認定”,横浜市記者発表資料 2016.11.24 http://www.city.yokohama.lg.jp/keizai/happyou/pdf/kisyahappyou02.pdf

本文中の図は,全てストローブ(株)より提供されたものである

(古寺 博)


「10-9 INNOVATIONの最先端」 企画特集は, NanotechJapan Bulletin と nano tech のコラボレーション企画です. nanotech2018_banner.jpg